”脳の健康”に今日から取り組もうーThinkieと考える脳トレの可能性

2024.02.19

昨今、世界的に高齢化が進む中、脳の健康増進に関わるニーズが高まっています。
脳科学ソリューション企業であるNeU※が開発した脳機能トレーニング(脳トレ)サービスを、米国向けにブランディング・再開発して展開しているのが、今回、紹介するThinkie Inc(在シアトル)です。
既存製品を海外展開する上で、どのようにニーズを捉えブランディングを行っていったのでしょうか?Thinkieの代表である揚岩氏より、海外市場のターゲットとニーズの捉え方について、また取り組みから見えた脳機能の維持・改善における重要性について解説いただきました。

※ NeU:東北大学加齢医学研究所、川島研究室の「認知科学知見」と、日立ハイテクの「携帯型脳計測技術」を統合して設立した会社。三井物産㈱は、NeUに出資参画しています。詳しくは公式サイトをご覧ください(https://neu-brains.co.jp

揚岩 康太 氏

三井物産 ウェルネス事業本部
Thinkie Inc, Chief Executive Officer

1985年北海道旭川市生まれ。札幌西高校在学中、チェコ共和国プラハに一年間交換留学。2010年、東京外国語大学チェコ語学科卒、新卒採用で三井物産に入社。鉄鋼製品本部で四年間海外営業を担当したのち、2015年に社費派遣でINSEAD MBAを取得。2016年よりウェルネス事業本部に所属。2023年1月にThinkie Inc を設立、CEOに就任。2024年開催のSIP Brain Health Innovation Olympicsの審査員に選出される。

世界で増加する認知症

脳の健康を脅かす大きな要因の一つに、認知症があります。高齢化に伴い、世界の認知症者数は2020年の5,500万人超から、2050年には1.39億人まで増加すると予測されています。そして、認知症関連のケアコストは、2030年までに2.8兆ドル―日本円にして約413兆円に達するとされています*1(認知症に関する詳細はこちら:認知症とは:共生社会の実現に向けて期待される企業の役割 | 陽だまり | 未来に、ウェルネスの発想を。 - 三井物産 (mitsui.com) をご参照ください)。
しかし、いまだに認知症を完全に治療できる薬は存在しません。最近やっと、認知症の中でも主要となるアルツハイマー型認知症の症状進行を抑える薬による治療が可能となりましたが、アルツハイマー型認知症は進行性の病気です。そのため、発症しないよう予防や脳の健康増進に努めることは現時点において変わらず重要なことだと認識しています。
近年、世界中で、認知症の発症予防の戦略検討や認知機能の維持・改善におけるさまざまな研究が進んでいます。特に米国では政府主導でBRAIN Initiative※やファンドが数多く設立されており、神経科学・脳科学領域への支出額は世界最大といえます*2
そうした中で、認知症の発症リスクや発症予防に良いとされる包括的な取り組みが特定されつつあります。発症予防に良いとされる取り組みは、栄養カウンセリング、運動習慣、代謝・血管性危険因子の管理、認知トレーニングなどであり、いわゆる「脳トレ」がその一つに含まれています*3

※ BRAIN(Brain Research through Advancing Neurotechnologies)Initiative :オバマ前政権が2013 年4月に立ち上げを発表した取り組みで、アルツハイマー型認知症や自閉症などの脳機能障害の治療方法の改善を図り、思考・学習・記憶といった人間の脳の機能についての理解を深めることを目的としている*4

認知機能の維持・改善においては、「早期発見」が注目され、さまざまな早期発見のための技術の開発が進められています。しかし、現時点では、いざ早期に認知機能の低下を発見できたとしても、その後の具体的かつ簡単に実践できる解決策が示されていないことが多いと思われ、この点が課題ではないかと感じています。認知機能の低下の早期発見は、早期解決策があってこそ初めて意味があると考えています。
もう一つの課題として、例えば、数独やパズルのような、いわゆる「脳に良い」とされているトレーニングには、実にさまざまなものがありますが、そのトレーニングが本当に、その人の脳に良い効果を与えているかを知るすべがない、ということがあげられるかと思います。いつ、どのように、何に対して、脳が活性化するかは、人によって異なります。だからこそ、脳の健康増進のために個々人が自分にベストな脳トレを行うには、脳の活性化がリアルタイムに可視化でき、それによってトレーニングの内容をパーソナライズできるサービスを提供することが重要ではないかと考えました。

「脳トレ」サービスが国を越えるまで

サービスを展開するにあたり、私たちは世界最大規模の脳のウェルネス市場である北米*5を最も有望な市場と考えました。決め手となったのは、市場規模と成長率です。中でも米国は、日本の3倍の人口を有する規模感はもちろん、先述したとおり政府主導の取り組みも進められています。
また、その市場規模・成長率の要因の一つでもありますが、米国には、日本のような医療保険制度がなく、公的な保証が行き届いているとはいえない状況です。そのため、個人の健康は原則的に個人の責任となり、認知症や介護が必要な状態になった場合、全ての負担は自ら、あるいは、家族に重くのしかかってきます。だからこそ、予防の取り組みを行う動機がとても強いのです。

市場を米国に定めた後は、国際アルツハイマー病学会に参加したり、高齢者施設を訪問したりと、米国の現状を理解することから始めました。並行して、認知機能の維持・改善領域における何十社もの企業と面談を行い、その中で出会ったのがNeUです。
NeUの優位性は、卓越した技術力と学術的知見にあります。世界中に「脳トレ」を提供するプレイヤーはたくさんいる中で、私たちが求める技術、つまり、自身が取り組んでいる「脳トレ」が自身の脳を刺激しているかどうか、リアルタイムに可視化できる超小型センシング技術を持っている企業は、3年前のプロジェクトを開始した当時、世界でNeUを含め2社しか存在しなかったのです。さらに、技術者・科学者集団であるNeUが試行錯誤されていた「売る」パートや「海外に展開する」パートを、総合商社である私たちが担うことで、相互補完できる関係を築けるのではないかという展望も協業の大きな決め手となりました。

テストマーケティングは、米国の高齢者施設を対象に行いました。NeUが日本で展開している脳トレのアプリケーションの英訳版を入居者の方々に試していただき、率直な使用感をヒアリングしました。その中で、日本人とアメリカ人の感性に大きな違いがあることが明らかになりました。
具体的な例をあげると、解説時に登場するアニメキャラクターが好まれませんでした。日本では、このアニメ的な要素が親しみを感じさせ、不評は一切なく、私自身も好意的に受け入れていました。ところが、米国ではこれを「子どもっぽい」と感じる高齢者が多く、非常に驚きました。日本では、アニメは大人も楽しむものであるのに対して、米国では「子ども向けのもの」であったのです。この発見を踏まえて、アニメ的な要素は、ほぼ無くすことにしました。
また、脳活動の活性度を表す「色」の直感的な受け取り方が、私たちと全く異なることは面白い発見でした。もともとの脳トレでは、脳が最も活性化している「良い状態」を、脳血流が上がるということで赤色を示していたのですが、米国では、赤色は信号機の赤=注意を喚起する色と捉えられ、何か悪いことが起こっているのか?と尋ねられることが多かったのです。こうした違いを受けて、脳活動の状態を示す色は、米国での色の捉え方に合わせてチューニングし、「スタイリッシュかつサイエンスに基づいたブランドイメージ」を指針に、細かいUI/UX※のブラッシュアップを重ねていきました。

また、脳トレを継続していただくためのヒントも、テストマーケティングで得られました。「確実に効果を得るために、いったい私は1日にどれだけ脳トレを行えばいいのか?」とたくさんの人に尋ねられました。1日に必要な脳トレボリュームを把握した上で取り組みたいという方が多くいらしたのです。米国では自分自身の健康増進に対して意識が強いため、明確なロードマップが見えていることが重要になります。そこで、アプリのゲーム性よりも目標設定機能に重点を置き、過去のデータをもとに、脳の健康を保つために必要な1日の脳の活動量と日々取り組んだ脳トレボリュームが明確にわかるよう脳活動ポイント目標と脳活動ゲージを新たに設定しました。脳活動ポイントと脳活動ゲージの設定は、脳トレのモチベーション維持のための工夫の一つとなっています。

※ UI/UX(User Interface/User Experience):User Interfaceはサービスやプロダクトとユーザーの接点であり、User Experienceは製品・システム・サービスなどの利用を通じてユーザーが得る体験を表す言葉。User InterfaceはUser Experienceの一部でもある。

生活の一部になる「脳トレ」を目指して

商用展開の第一歩として、シアトルの2つの高齢者施設でパイロット導入を実施したのですが、そのまま受注につながるなど非常に良い反応を得ています。サービスをリリースした後も、UI/UXのアップデートを重ねながら、文字のサイズや色使いといった細かいけれど離脱につながりかねない、ユーザーの利用上の「引っ掛かり」を解消しています。エンドユーザーにアプリの利用を習慣化してもらえるよう解説動画を作成したり、アプリ内にチュートリアルを設けたりと改善を進めています。

現在は、北米の高齢者施設というニッチな領域をターゲットにしています。まず、最初のステップとして、Thinkieのソリューションの良さをわかってもらえるようしっかり説明をして、ファンとなってくれる強固な顧客基盤を作ることが重要だと考えているためです。
長期的な目標としては、大きく3つあります。1つ目は、直接的に消費者に製品を販売する展開です。現在は、高齢者施設との契約が中心ですが、すでにWebサイト経由で個人のお客様から問合せもいただいています。
2つ目は、日本への逆輸入を含む海外展開です。認知機能の維持・改善に対する課題意識は世界共通であり、今回の米国向けの独自のブランディングのようにローカライズは必要ですが、「脳トレ」そのものは、国境を越えて取り組めるプロダクトだと考えています。
3つ目が最もチャレンジングで、規制当局の承認を得て医療機器として展開することです。現状では「一般的な健康増進のためのウェルネスプロダクト」という位置づけのため、規制当局への申請は不要です。今後、ソリューションの展開を進める中で、認知症予防の効果が医学的に実証できる可能性が見えてきた場合、医療機器としての開発も見据えています。

「脳の健康」は、私たちそれぞれの存在の本質に関わるからこそ、今から。

私がこの事業に取り組む原動力の根底には、認知症だった祖父の存在があります。
北海道で小学校卒業後、兵役を挟みながら約70年にわたって農業に従事していた祖父は、優しくて、よく一緒に遊んでくれる活動的なおじいちゃんでした。しかし、晩年、認知機能が落ち施設に入ってから、「ちょっとした物忘れ」が「本当に思い出せない」状態になっていく自分の変化を自覚し、とても悲しそうだったことが強く印象に残っています。その様子を見て、認知症になったからといって人は急に何もかもわからなくなるのではなく、認知機能が低下していくプロセスを自認しながら過ごさなければならず、これがいかに本人にとって辛く悲しいことなのか、認知症の非常に痛ましく特徴的な側面を感じました。
人間の脳が司る記憶、感情、理性といった機能は、その人を形成する、まさに存在理由のような本質的な部分です。その部分が崩壊し、自分が自分でなくなるような、そんな悲しい思いをする人がこの世界からいなくなるために何かしたいと思ったことが活動のきっかけでした。
脳の健康が気になり始め、能動的にアクションを起こしたいと思っている方をサポートできるようなソリューションをつくっていくこと、それが亡くなった祖父へのはなむけにもなるのではないかと思いながら取り組んでいます。

NeUのCTOであり、「脳トレ」ブームの火付け役でもある東北大学の川島教授によると、認知機能は20歳がピークであり、それ以降は低下していくとのことです。強い需要として、どうしても高齢者層がターゲットとなりがちですが、本来であれば30歳くらいから始めるのが良いとされており、まさにビジネスパーソンこそ脳を鍛えるべきといえます。プロジェクトを通じて知ったこの事実は、私自身にとっても真に迫るメッセージでした。
私自身もそうですが、多くの人は感覚として、20歳頃から自分はそれほど変わっていないと感じているのではないかと思います。これは、高齢になっても変わることはないと思います。実際、高齢者施設で脳トレを体験していただいた時に、脳年齢が実年齢より5, 6歳若い結果にショックを受ける―つまり、実年齢より内面的に、自分はもっと若いと思っている方が多かったのです。20歳から低下する認知機能は、経験やそれに基づく知恵がカバーしていることも、川島先生のご研究でわかっているのですが、それが自身の脳の衰えに気づきにくくしているのかもしれません。
高齢の方々にとっては、「今日と同じ明日が続くこと」こそが希望です。それを可能な限り現実にしていくために必要なのは、脳の健康増進、つまり認知機能の維持・改善に今から取り組むことです。自身の脳が一番若いのは今日です。川島先生の言葉を借りて言うなら、脳は何歳からでも鍛えることができます。今日と同じ明日を迎えるために、ぜひ今日から意識し、実践していただきたいです。

*1 ADI (Alzheimer's Disease International ): Dementia statistics (参照 2024-1-29)
*2 NIH (National Institutes of Health): News & Events/The BRAIN Blog (参照 2024-1-29)
*3 Lancet. 2015 Jun 6;385 (9984) :2255-63.
*4 BRAIN Initiative | The White House (archives.gov) (参照 2024-1-29)
*5 Absolute Markets Insights |Global Brain Wellness Technology Market 2022-2030 (参照 2024-1-29)