「未病」を捉える―病気前の「揺らぎ」を定量化するDNB理論
2024.06.24
未病とは、健康と病気の間にある状態のことです。健康寿命を延伸し、自分らしく生き抜くことができる社会を実現するために、未病への注目が高まっています。
この「未病」という状態は、どのように捉えることができるのでしょうか?現在、生体情報の揺らぎに着目して、未病を科学的な指標で捉える研究が進められています。和漢医薬学を専門に、その生物学的研究を担う小泉教授をお迎えし、最新の研究動向を踏まえてご解説いただきました。
小泉 桂一 教授
富山大学 和漢医薬学総合研究所
研究開発部門未病分野
1997年、昭和薬科大学大学院薬学研究科博士課程前期修了、2000年に大阪大学大学院薬学研究科博士課程後期修了。2000年、米国国立衛生研究所博士研究員を経て、2001年より富山医科薬科大学和漢薬研究所・助手に赴任。2010年より富山大学和漢医薬学総合研究所・准教授、2020年には同研究所・教授に就任。主に和漢医薬学を含む研究技術を駆使して、未病の生物学的メカニズムを明らかにし、未病をターゲットとする新しい先制医療薬の開発を目指した研究を行っている。
「未病」の科学的定義をつくる
「未病」とは、どのような状態をいうのでしょうか? 小泉先生がお考えになる「未病」の定義を教えてください。
私は、未病の定義はまだ「ない」という考えのもと研究を進めています。ただし、これは基礎科学の観点から見た定義がない、ということです。
漢方医学において「未病」という概念はありますし、内閣府や日本未病学会も未病を定義づけています。それらによると、未病とは「健康と病気の間にある状態」であり、健康か病気かという二元論ではなく、連続的に捉えたときの遷移状態を指しています。
歴史をたどれば、約2,000年前の中国最古の医学書「黄帝内経(こうていだいけい)」にも「未病」という言葉が登場しているほど、その概念は、はるか昔から医療の中に息づいていました。医師たちの経験に基づいた「未病」の捉え方は時代を超えて受け継がれ、臨床に応用されてきたのです。言い方を変えれば、それは臨床という専門的な領域では捉えられてきたということです。専門家は経験に基づいて「未病」の見立てができますが、誰もが同様の見立てができるように標準化されていないのです。
そこで、私たちは今、未病を評価するために不可欠な定義をつくるために、「揺らぎの状態」を「未病の状態」と考え、科学的に定量化するための研究を行っています。
「未病」が注目されるようになった背景を教えてください。社会や意識の変化は、どのように影響しているのでしょうか?
日本の医療戦略の司令塔となるのは、内閣府の健康医療戦略推進本部です。平成29年に閣議決定された「健康・医療戦略」では、「未病の考え方などが重要になると予想され、(中略)新しいヘルスケア産業が創出されるなどの動きも期待される」と記載されています。未病研究は、国としても重要な政策課題として位置付けられています。
私なりに分析すると、この背景には「セルフメディケーション※」の働きかけがあると考えます。セルフメディケーションは、超高齢化社会を迎えた現代において、国民の健康寿命を延ばし、国の保険医療費を抑制するためにも、一人ひとりが食事や運動といったセルフケアを心掛け、病気を未然に防いでいきましょう、というものです。これを国民に浸透させていくためにセルフメディケーションの範囲を考えた結果、「未病段階はご自身でケアしましょう」となったのではないかと考えます。
そうすると、次に出てくるのは「未病の定義とは?」という問いです。先ほども述べたように、科学的な指標が確立し、定義ができれば、医療従事者だけでなく私たち一人ひとりが生活の中で、能動的なケアを実践できるようになります。こうした背景から、国の支援のもと未病研究が進んでいます。
※ セルフメディケーション:自分自身の健康に責任を持ち、軽度な身体の不調は自分で手当てすること(世界保健機関;WHO*1の定義)。
DNB理論で未病の「揺らぎ」を可視化する
その研究が、小泉先生も一員として現在進められている未病研究なのですね。
はい、内閣府は今「ムーンショット型研究開発制度」という超大型研究を推進しており、私が参画している未病研究もその一つです。ムーンショット研究は、10の目標から成り、柔軟な発想に重点をおき、例えば、ムーンショット目標1では、2050年までに「身体、脳、空間、時間の制約からの解放」が実現できる世界をつくっていきましょうという、まさに月を射るような壮大な理念のもと研究開発プロジェクトが勢ぞろいしています。
その中のムーンショット目標2で掲げられているのが「2050年までに、超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会の実現」です(プログラムディレクター祖父江 元、愛知医科大学 理事長・学長)。未病研究はこのムーンショット目標2で遂行されています。ムーンショット目標2には、5人のプロジェクトマネージャーから構成されており、4人は医学などの生命科学の研究者たちですが、そのうちの一人、東京大学の合原一幸 特別教授/名誉教授は、なんと数学者です。先ほどから述べている「未病の科学的な定義」ですが、実はこれは数式で表すことができるのです。私たち富山大学は、合原特別教授の研究班に所属しています。
合原特別教授が構築した「動的ネットワークバイオマーカー理論(DNB理論)※」を実験的に証明する研究を私たち富山大学が担っています。
※ 動的ネットワークバイオマーカー理論(Dynamical Network Biomarker理論):生体が病気になる直前の状態(未病状態)を検出するための「指標」 で、具体的には遺伝子発現量などの集合となる。従来のバイオマーカーと異なり、東京大学の合原特別教授の研究チームが開発した全く新しい動的なバイオマーカーの概念。DNB理論は応用の範囲が広く、経済など他分野に適応する場合はDynamical Network Marker理論としている。
DNB理論とはどのようなものなのでしょうか?
DNB理論は、生体信号の「揺らぎ」に着目した数理的手法です。遺伝子やタンパク質などの大規模発現データから成る複数の構成要素間のつながり、例えば、何万という遺伝子発現ネットワークにおいて、病気の状態に移行する前の「揺らいでいる状態=未病」を病気の予兆として明確に識別できる動的なバイオマーカーの概念で、原理は非常にシンプルです。
意外に思われるかもしれませんが、健康な状態と病気の状態はもちろん全く別物なのですが、実はそれぞれ非常に安定した状態といえます。例えば、深いくぼみに置かれている小さなボールを考えてみてください。その場が少し揺れたとしても、周りにある程度の高さの壁があるので、その領域から飛び出ることなく、いずれ元の位置に戻ります。これが、健康な状態です。
健康な状態はエネルギー的に安定しており、疲れたり風邪をひいたりしても、いずれ回復して元の状態に戻ります。いわゆる回復力と呼ばれるものです。
一方、病気の状態も安定した状態と言えます。病気になると、いつ検査しても値が正常範囲にないことが再現できます。例えるなら、病気の状態は、健康な状態と質が異なる深いくぼみであり、正常状態に戻るには大きな壁を乗り越えなければなりません。
何らかの要因によって健康な状態がエネルギー的に不安定化するということは、ボールがおさまっていた深いくぼみがだんだん浅くなる様子に例えることができます。このように安定した状態から不安定化し「揺らいでいる状態」が、病気になる前の未病の状態で、この状態をDNB理論で捉えることができることがわかったのです。
株価の大暴落が起こる際に個々の株価が乱高下したり、サンゴの生態系が崩壊する前に、例えば魚の数が増減するなど、何らかの「揺らぎ」は、ある状態が次の状態に大きく変化する予兆として、金融や生態といった分野で観察されています。
一般的な生命科学分野の研究では、仮説に基づき再現性のある現象を捉え、統計的に意味があることを示すことが重要で、ノイズであるデータのばらつきに意味を見いだそうとすることはありません。実験で平均値から大きく外れた数値が観測された時は、その値は何らかのエラーや外れ値と考えるのが普通です。しかし、これら外れ値の中に隠れていたのが、「揺らぎ=未病状態」でした。
「DNB理論」を実証するために、どのような研究を行ったのでしょうか?
自然発症メタボリックシンドロームモデル動物であるTSODマウスを用いて、DNB理論によって未病状態を捉えられるか実験を行いました。TSODマウスは、8~12週齢で肥満や高血糖(尿糖)といったメタボリックシンドロームの症状を発症するモデル動物で、脂肪組織の全遺伝子の発現量を調べました。本実験では未病を捉えるための検証ですので、何も起きていなさそうな時期から徹底的に調べていく必要がありました。そこで、3週齢、4週齢、5週齢と、各週齢の遺伝子発現量を調べ、DNB理論で解析したところ、4週齢から5週齢の時点にかけて大きく揺らぎ、6週齢ではその揺らぎが収束する遺伝子群が検出できました。
この実験の結果から、メタボリックシンドロームを発症するTSODマウスの場合、5週齢で未病状態に至ることがわかり、2019年に論文を発表しています*2。従って、現在私たちは、DNB理論に基づく解析により、生体情報が急激に揺らぐ状態を未病状態と定義して、研究を進めています。
未病を数値で捉えた最新研究――血液がんの「揺らぎ」
現在、「DNB理論」の研究で取り組まれていることについて教えてください。
現在私たちは、医療の現場で未病状態を捉え、適時適切な介入を実現するために、未病診断ができるシステムの構築を目指して研究に取り組んでいます。
DNB理論を実証した動物実験では、組織を採取し何万という遺伝子を解析していますが、医療の現場で同じことはできません。患者さんの負担は極力少ないよう非侵襲あるいは低侵襲な方法を検討しなければなりませんし、定期的に何万もの遺伝子を測定することもコスト面において現実的ではありません。
実際の医療現場で活用可能な未病状態を捉える診断法の確立を目指した最新の研究(2024年1月公開)*3では、がんの専門知識を活かし、研究対象として「意義不明の単クローン性ガンマグロブリン血症(MGUS;Monoclonal Gammopathy of Undetermined Significance)」を選択しました。
MGUSは、血液がんの前段階で未病状態であることが想定され、度々検査を行う点も研究対象として適していました。固形がんは、診断や病変の拡大の程度を把握するためにがん組織の一部を採取する生検組織検査を行いますが、頻回に行うものではないので今回の研究では対象外としました。
MGUSになると、Mタンパクと呼ばれる役に立たない抗体ばかりが造られるようにようになります。MGUSは基本的に無症状なので、健康診断やほかの病気の定期検査で偶発的に発見されることが多いです。
現状、MGUSと診断された場合、基本的に無症状なので治療はせず経過観察となりますが、年に1%の割合で多発性骨髄腫や悪性リンパ腫に進展すると言われています。多発性骨髄腫は完治が難しく再発を繰り返すことから、無症状の時に適切な介入を行い、進展を抑えることがMGUSでは何より必要だと考えていました。
血液サンプルの分析手法には、ラマン分光法を用いました。物質に光を当てると反射して散乱光が生じ、その中にわずかに波長の異なる「ラマン散乱光」が含まれています。このラマン散乱光は物質の指紋とも呼ばれ、光を照射した物質の構造に対応した固有の波形を示すのですが、近年、生体試料を対象にしたイメージング法としても進化してきました。ラマン散乱光によって、生体試料に含まれる分子の種類や状態に関する情報が得られるのです。
正常状態、MGUS、多発性骨髄腫のそれぞれの患者さんの血液サンプルをラマン分光法によって分析し、得られたデータにDNB理論を適用して解析した結果、正常状態と多発性骨髄腫に対してMGUSは、より不安定化している状態であることが有意な数値の変化として確認することができました。
これまで無症状で経過観察とされてきたMGUSが、まさに「揺らいでいる」未病の状態として、数値で明確に検出できたことは非常に画期的なことでした。なぜなら、未病状態を数値で示すことで、正常な状態に戻すための介入方法の検討が可能になるからです。この研究を発展させて、この未病状態の診断法を迅速かつ簡易的な形で医療現場に導入できるかどうか、また、検出できた「揺らぎ」の程度が血液がんへの進行確率と相関関係を持つのかについても研究を進めていきたいと考えています。
新しいヘルスケア・ウェルネス産業を、未病領域から。
未病研究の展望と、未病分野を対象としたビジネス展開に関する先生のお考えをお聞かせください。
未病研究チームの最終目標は、天気予報のように日々「未病予報」をお知らせし、人々の健やかな暮らしが守られる世界をつくることです。今はまだ実現が難しいですが、ウェアラブルデバイスなどで蓄積した日々の健康データから、未病状態が判定できるような夢のような未来の実現を目指しています。
技術開発は日々進んでいますが、ラマン分光法に用いる畳三畳分ほどあるラマン顕微鏡を2050年までにウェアラブルのサイズにまで小さくすることは現実的ではありません。私たちは基礎研究を専門とする人間ですから、医療機器や検査事業を取り扱う民間企業の方々に、未病向けのサービスやソリューションといったビジネスをぜひ検討していただければと思います。例えば、ウェアラブルから得られるデータから、睡眠の質だけでなく、睡眠の状態から注意すべき「揺らぎ」の状態にあることを知らせることができれば、これはセルフメディケーションの一助になりえます。科学的な定義が確立された後、ビジネスに取り入られ、みんなが使いたいと思う健康サービスの形にしていくことに未病領域の発展がかかっていると思います。
ウェルネス社会の実現のために、未病対策をどのように推進していくべきでしょうか?
科学的定義が確立すれば、おそらく未病が治療の対象となり、薬を処方するまでにいかなくても医師などの専門家によるなんらかの介入ができるようになるのではないかと考えています。
未病段階で食い止めるには、医療従事者などによる介入以外にも、日々の食事や運動など基本となる生活習慣を整えることも不可欠です。そこには、民間企業の活躍のチャンスが大いにあると思います。
例えば、「糖尿病未病」と指導された方向けの急激に血糖値が上がらない食材で工夫された美味しい食事を提供するレストラン、お得な価格でパーソナルトレーニングが受けられるジムなどです。このようなサービスがあると人々は楽しく未病対策に取り組めるのではないでしょうか?このようにさまざまなヘルスケア・ウェルネス産業が活性化し、みんなが楽しく未病対策に取り組める、そのような世界が早く実現するよう、未病の科学的定義を確立するための研究に邁進し続けたいと思います。
ウェルネス社会の実現には、人々の未病に対する意識やヘルスリテラシーの向上が不可欠ですが、それが醸成されるのをただ待っていては何も始まりません。自らの取り組みやサービスを通してどのように働きかけ、気づきの機会を提供していくのか、その姿勢は研究にもビジネスにも共通する部分だと思います。ともに未病領域の未来を拓いていきましょう!
*1 World Health Organization. (2000). Guidelines for the regulatory assessment of medicinal products for use in self-medication, p. 4(参照 2024-06-20)
*2 Sci Rep. 2019 Jun 24;9(1):8767.
*3 Int J Mol Sci. 2024 Jan 26;25(3):1570.