PSP社と考える、PHRから始まる未来の医療

2024.05.31

パーソナルヘルスレコード(PHR)とは、生涯にわたって個人の健康や医療に関するデータを蓄積し、本人の意思に基づき活用する仕組みのことです。昨今、医療分野をはじめとしたPHR活用が注目され、民間事業者によるPHRサービスも拡がりを見せています。人々の健康増進や医療・介護の発展において、PHRサービスはどのような役割を担うのでしょうか?
今回は、PHRサービス※の国内No.1シェアを誇る「NOBORI」を展開するPSP社の依田代表をお迎えし、医療機関と民間企業が連携する上でのポイントや、PHR事業の展望、ビジネス目線で活用可能性について教えていただきました。

※ PHRサービス:提携医療機関から提供された画像や検査結果、薬などの医療情報をスマートフォンでいつでも見ることができるサービス。

依田 佳久 氏

PSP株式会社 代表取締役社長 

1987年ニチメン(株)入社、2001年テクマトリックス(株)取締役就任、2018年(株)NOBORI代表取締役就任、2022年PSPとNOBORIが合併、合併後のPSP(株)の代表取締役就任、テクマトリックス(株)取締役専務執行役員。

PSP社について
CT、MRI、内視鏡、眼底カメラ、超音波などのデータを保管する医用画像システム(PACS)および放射線分野の業務支援システムの開発提供、医療関連のクラウドサービス・AI開発支援プラットフォームの開発提供に加え、PHRサービスを提供。

医療の「自分ごと化」を阻んできた「情報の非対称性」に切り込む

医療は、しばしば「情報の非対称性」が顕著なサービスだといわれます。医療者側が多くの医療情報を把握しているのに対して、患者側は自分の医療情報に自由にアクセスすることすら難しいからです。専門的な知識を持たない患者側がどこまで理解できるかはさておき、自身の健康に関わる情報にアクセスしたいという気持ちは、医療者側が思うよりも、ずっと大きいものだと感じています。
かかりつけのクリニックから大病院に紹介状を発行してもらう際、紹介状には自分のことが書いてあるのにしっかりと綴じられ、読めないことにもどかしさを感じる方もいらっしゃると思います。実際に私たちのサービスに寄せられるフィードバックを見ても、そうした声は少なくありません。
アメリカの展示会では、PHRを語る際に「unlock」という言葉が使われていました。病院の中に閉じ込められたデータを「unlock」し個人に返す、いわゆる「医療情報を民主化する」という考え方です。私も同様に、個人のデータに対して、本人がアクセスできるようにするアクセシビリティ全体をPHRだと捉えています。(PHRの定義に関する詳細はこちら:PHR普及推進の最前線―石見先生が語る、パーソナルヘルスレコードが拓くデジタルヘルスケアの未来とは | 陽だまり | 未来に、ウェルネスの発想を。 - 三井物産 (mitsui.com)をご参照ください)。

1日の歩数や睡眠時間、食事や体重といったライフログもPHRの1つですが、私たちの事業の中核は、病院の中に閉じられたデータを個人に返していくことです。ただ、医療側も意地悪でデータを「閉じ込めて」きたわけではありません。これまでの医療現場では、最善の医療は医師が提供されるもので患者側はそれに従うという構図が前提にありました。
そう考えると、昨今のPHRへの注目の高まりは、自分の健康に対して主体的に考えようとする意識が生まれつつあることの現れであり、それによって少しずつではありますが、患者が自身の健康に関わる医療データへのアクセスが実現してきています。

EMR※1は、いわゆる電子カルテで、医師たちが紙で記録していたデータが病院内で電子的に管理されるようになりました。それらに患者の検査情報やレセプト情報なども含めて地域の医療機関と連携していく仕組みがEHR※2です。
政府による補助金施策が追い風となって、全国の自治体でEHRサービスが積極的に展開されました。それらの多くは「患者さんを中心にした地域医療連携」を標榜していましたが、患者さんは輪の中心にいませんでした。「この病院へあなたの情報を共有してもいいですか?」と合意をとる形であって、患者さんが「その情報、私も見たいのですが…」と切り込む余地はなかったのです。
そうした意味では、今、患者さんに主権が移りつつあることは、PHRがもたらす最も大きな変化ではないかと考えています。

※1 EMR(Electric Medical Record):電子医療記録。紙のカルテを電子化したもの。医療機関内部での運用を意図して設計されている。
※2 EHR(Electric Heath Record):電子健康記録。医療機関で取得される診療情報やレセプト情報、検査データ、既往歴やアレルギー情報などの患者の基礎情報などを継続的に蓄積し、全国規模の情報ネットワークを通して活用できるようにした電子化記録。

私たちは医療機関向けに、いわゆる医療用画像の倉庫となるクラウド事業を長年行ってきました。ターニングポイントは2012年の法改正により、私たちのような民間企業でも医療情報をクラウド環境で保存できるようになったことでした。クラウドPACSサービスを提供した当時から、単に情報の管理場所を病院内からクラウドに移すだけでなく、それによってできることがあるのではないかと社内で議論してきました。その中で、医療における「情報の非対称性」がこれほど顕著であるにも関わらず、ほとんど課題視されていないこと自体に問題があると気づいたのです。病院と社会のコンセンサスを得た上で、医療データを個人に返すところまでをやりきる、それが当時からの私たちの目標でした。
医療用画像の管理システムは、2,500施設に近い病院にご利用いただいており、そのうち約1,300施設の病院は私たちが提供するクラウド環境と繋がっています。このインフラシステムを活用し、自身の健康データを個人認証によって確認できるPHRサービス「NOBORI」アプリを2020年にリリースしました。患者さんにとって安価にPHRサービスを開始できたのは、クラウドPACSサービスを主要事業としているからであり、私たちのアドバンテージだと思います。

確認したい時に、確認したい相手と――自分の健康をてのひらに

「NOBORI」アプリを使うと、病院内で発生する診療データをはじめ、AppleヘルスケアやGoogle Fitなどと連携させることで、ご自身で記録しているライフログデータを「NOBORI」アプリ内で確認できるほか、マイナーポータルに一定期間保存されている予防接種などのデータも集約することができます。
また、ご自身の医療データをかかりつけ医やその他医師と簡単な手順で共有できます。まず、医師のPCなどから特定のURLにアクセスしてもらい、表示されるQRコードを自分のスマートフォンで撮影します。すると、スマートフォン上で共有したい自分の過去の医療データが選択できるようになります。共有したいデータを選択すると、クラウド上のデータ倉庫の扉が一時的に開かれ、医師のPCで共有を許可したデータが閲覧可能となります。各自治体が取り組んでいたEHRでは、病院間でデータを共有する際、事務局が患者本人に同意確認を行っていました。「NOBORI」アプリでは、自分自身で同意確認作業を行うため、同意確認のための人件費を抑えることができています。
また、登録内容をご家族と共有することもでき、両親が子どもの健康情報を管理したり、高齢の親の子が親の健康を確認し見守るといった活用も多くなされています。

そうですね。例えば、アプリ上にある受付システムを使えば、診察の順番をスマートフォンで確認しながら車の中で待機することができます。待合室で待つ場合も、自分の順番を手元で把握できるので、売店やお手洗いにも行きやすくなります。このシステムが利用可能になったことで、病院内のコンビニやカフェの売上が増えたという思いがけないお話も伺っています。
会計の後払い機能もあり、それを使うと診察後に待つ必要もありません。また、かかりつけ薬局を登録しておけば、処方箋データが薬局に転送され、スムーズに薬をピックアップすることができます。病院や薬局での滞在時間を極力減らせるという利点は、偶発的なタイミングでしたが、コロナ禍におけるニーズにもマッチし、多くの方から「非常に便利で助かりました」と好意的なフィードバックを頂きました。

現在のユーザーは約20万人と、まだまだ発展途上のサービスですが、最高齢の利用者は98歳と幅広い世代の方々にご登録いただいています。基本的に無料のサービスとして、自身のデータを管理したり、家族や医師と共有したりでき、医療機関のデータの保管期間は1年分となります。1年を超えてデータを継続的に保管したい場合は月額100円で可能となります。
生まれた瞬間からデータを蓄積したとしても、100年間で合計12万円です。一生の医療に関わる全データを12万円で記録することができるのです。連続したデータの蓄積があれば、おのずと適切な医療が受けられるようになると考えられますし、今後、病気の予兆を早期に捉えることも可能になるのではないかと思われます。
最終的にはPHRサービス事業だけで収支バランスを取ることを目指したいですが、今はそれよりも、まず、みなさんにご自身の健康情報を記録する意義を実感してもらうことを第一に、主軸となるPACS事業で収益面を補いながら運営しています。
個人が主体的に健康を自己管理していく、それを表すキーワードとして、私たちは「医療の自分ごと化」を掲げています。多くの方に自分自身で医療情報を管理することの意義や有効性をご理解ご納得いただき、各個人による自己負担でPHRサービスが成り立つことが立証できたら、これまでにあった医療システムやインフラ構築とは全く違うビジネスモデルであり、新たなアプローチとなります。それは医療関連サービスにおける大きな変化になると考えています。

あなたのデータの活かし方は、あなた自身が決める

アンケートでは、アプリの使用感や率直な感想、課題点に関する声をダイレクトに受け取っています。「子どもが超低体重で生まれ不安でしたが、毎日のケアの経過が「NOBORI」アプリで確認できたことは、心の拠り所になりました」「親の通院に同行できない時でも、診察内容が把握できるので、とても助かっています」「服薬履歴もアプリ上で把握できるので、問診で聞かれた際、すぐ答えられるようになりました」といったお声をいただいています。医師とのコミュニケーションレベルの向上にもつながっていることがわかり嬉しく思います。
利用者の方々は、アプリの有効性をそれぞれの生活の中で見出してくださっており、引き続き利用者の声に耳を傾けながら、今後さらに機能を充実させていくことを目指して開発メンバーたちと日々熱い議論を重ね士気を高めています。

政府によるマイナンバー制度のインフラ整備をはじめとするPHR実現に向けた積極的な環境整備や情報発信が追い風となり、近年、PHRという言葉が広く一般的に認知され始めていることを実感しています。私たち1社だけでPHRサービスの全てを担い自社利益を追求するのではなく、患者さんの健康上のメリットを最大化することを共通の目標として行政、自治体、民間企業がそれぞれの役割を明確にしながら連携を強固なものにして、PHRサービスを構築していきたいと考えています。PHRサービス構築に向けて立場が異なる各関係組織の連携が強化され、相互運用性がセキュアに高まっていけば、より利用者に寄り添うことができますし、結果、日常生活におけるさらなるPHR普及が期待できます。

PHRの普及において最大のボトルネックは、PHRを導入している病院が限定的であることです。依然として医療機関の6割が患者へのデータ開示に消極的です。
医療用画像データ、検査結果などを含む診療に関わる全データを開示すれば、患者さんからの質問が増えて、ただでさえ多忙な医療スタッフに過度な負担を強いることになるのではないか、訴訟のリスクが増えるのではないかと懸念される先生もいらっしゃいます。しかし、医師だけに大勢の患者のケアを任せっぱなしにするのではなく、患者を中心として、かかっている医療機関の医療従事者、場合によっては他の医療機関も含めたチーム医療を形成することで、患者さんも自分の健康に関心が高まり、チームで見落としをなくしていくことができれば、それは患者さんの健康を守るセーフティネットとなるのです。
このようなメリットを実績として積み上げ、1施設でも多くの医療機関に導入頂きたいと思っています。

医療用画像データを含めた診療データをクラウドで管理し、本人の意思でデータを扱えるサービスは、世界でも類を見ないと自負しています。月額100円という金額感で運営していると、データを悪用されるのではないかと懸念を持たれることもゼロではありません。しかし、私たちが何よりもまず伝えたいのは「あなたが同意しない限り、あなたのデータはあなたの意図以外で使われることは絶対にありません」ということです。
医療業界では、診療データに対して「一次利用」「二次利用」という言葉が使われます。本人の治療のためにその人自身のデータを使うことは一次利用ですが、それを横に並べて数人の匿名化されたデータを研究に利用する場合は二次利用となり、病院内であっても本人の同意を得る必要があります。まして他の医療機関との横断的なデータ共有となるとなおさらです。
医学の発展に臨床研究は不可欠ですが、研究する医師が身を置く環境によっては研究に必要なデータが不足し、医師自ら他の病院に連絡してなんとかされているケースもあります。
PHRでは、みなさんのデータを本人に返した上で、ご本人から許諾を得ることができれば、そのデータを研究に活用することができます。このようなデータ活用のシステムは、創薬や医療AI、新たな治療法や医療機器の開発を可能にします。つまり、未来の医療発展の礎となる可能性を秘めているのです。実際、PHRを活用して認知症の早期発見や予防に向けた研究に取り組み始めている医療機関もあります。
患者のみなさんが健康上のメリットを最大限享受できるよう、これからも私たちはPHRサービスを通じて患者中心の医療の実現を後押しし、さらなる医療サービスの質の向上と健康の自己管理に対する人々の関心を高めていくことを目指していきます。