AIが創薬にもたらす未来――三井物産×NVIDIAが仕掛ける創薬支援サービス「Tokyo-1」
2024.06.07
AI技術を駆使して薬の研究・開発を行う「AI創薬」は、世界的に市場規模が拡大しつつあり、注目の創薬アプローチとして期待が高まっています。
このAI創薬において、三井物産は米国の半導体大手NVIDIA(エヌビディア)社と協業し、AI創薬支援サービス「Tokyo-1」を提供しています。国内の製薬企業向けにスーパーコンピュータ(スパコン)の活用を推進するこのプラットフォームサービスは創薬、そしてヘルスケア産業の未来をどのように変革していく可能性を秘めているのでしょうか? 立ち上げに携わったICT事業本部の阿部氏に、AI創薬事業が拓くヘルスケア産業の展望について伺いました。
阿部 雄飛 氏
三井物産株式会社 ICT事業本部 デジタルサービス事業部
デジタルヘルスケア事業室長
1997年に三井物産に入社。2004年から2010年、2013年から2018年までそれぞれタイ・インドネシアの通信・インターネット関連関係会社に出向し、商品開発やマーケティング等を担当。2018年より現職にて、AI創薬事業に加えて、医療機関向けのDXソリューション事業、子どもを対象としたオンライン健康相談・診療予約プラットフォーム事業を立ち上げるなど、国内ヘルスケア産業のDX化に取り組む。
AIが創薬を次のフェーズに引き上げる
創薬領域における国内の現状と、AI創薬の世界的な潮流について教えてください。
1つの新薬が販売承認を得て上市するまでには、10年以上の非常に長い年月を要します。創薬研究から非臨床試験、臨床試験と複数の段階があり、開発途中で断念されるものも少なくありません。これまでは、研究者の経験と勘頼りで、運に恵まれてやっと薬が完成するといった状況でした。
世の中には、まだ薬が開発されていない病気や、より効果的な薬が求められている病気もありますが、従来の手法で開発できる薬は、現状頭打ちになりつつあります。この現状を打破する新たな創薬技術が必要となる中で、注目されるようになったのがAIの活用です。
世界的に見ると、創薬にAIを活用する動きはアメリカを中心に中国などでも非常に活発になっています。英国のAI企業に特化したベンチャーキャピタルAir Street Capitalの報告によると、AIを活用した開発品は2022年時点ですでに18品が臨床試験入りしています*1。現時点では、さらに状況が進み20品以上になっていると思われます。「AIがあったら良い薬が作れる」というのは、もはや可能性の話ではなく、現実のものとなりつつあるのです。
新薬の研究開発において、AIはどのような役割を担うことができるのでしょうか?
創薬研究は、初期の基礎研究が約2〜3年、非臨床試験と呼ばれる細胞や動物などを用いて薬の有効性を確認する研究が約3〜5年、ヒトを対象に有効性・安全性を確認する臨床試験(治験)が約3〜7年かかると推計されています*2。各段階でうまくいかなければ振り出しに戻るため、これは最短で進んだ場合の話になります。
創薬研究においてAIが期待されていることは、研究にかかる時間とコストを削減し、開発の成功確率を高めることです。うまくいけば、従来の1/3にまで期間を短縮することができるといわれています。
分子レベルでの病気の理解の深まりとコンピュータの計算能力の向上に伴い、さまざまなインシリコ創薬(計算科学を用いてコンピュータ上で薬の候補物質のシミュレーションを行う開発手法)が発展してきました。インシリコ創薬は、薬の標的となるタンパク質の構造を精緻に捉えたり、薬の候補物質と標的タンパク質とのくっつきやすさを分子動力学のシミュレーションでさまざまな条件を設定して調べる手法ですが、近年これにAIを組み合わせ、精度と計算効率をさらに高め探索範囲が拡大しつつある状況です。
また、過去の創薬研究データを調査した論文では、創薬研究の初期段階における薬の候補物質の有効性や毒性評価に関する技術的な限界が、成功確率の低さの原因として考察されています*3。毒性評価に関しては、こういった課題意識から過去の膨大な研究データが蓄積・標準化されてきたわけですが、これらが今、AI創薬で活用され、人力で行うよりも格段に高精度かつ短期間で毒性の危険性を回避できるようになってきています。薬の候補物質の選定後、非臨床試験を通過する確率は一般的に4〜8%といわれていますが、AIを活用することで成功率が80%を越えたと発表した製薬企業もあるほどです。
このように、AIを活用して従来の成功確率を下げていた原因にアプローチし始めています。毒性試験をクリアし、非臨床試験で精度高く有効性を示せる薬の候補物質がいくつか用意できれば、おのずと臨床試験の成功確率もあがるのではないかと期待されています。「非臨床試験を確実にクリアし、上市までノンストップで進む」、これがAI活用の究極の理想形ですね。
出典:日本製薬工業協会(製薬協)などのデータを参考に作成
政府や製薬協会の報告にもありますが国内のAI創薬の遅れは、なぜ起きているのでしょうか? また、どのような経緯でAI創薬が重要視され始めたのでしょうか?
まず、新たな分野に対して大胆にチャレンジできない日本の体質的問題が根底にあると思います。ある程度結果が見えることに限定して、小さくテストして小さく新技術を採用する――このような現状があらゆる産業で問題視されていますが、その傾向が製薬業界では特に強いのではないでしょうか?世界に比べて製薬企業同士の統合が日本では進まなかったことも大きな投資に踏み切れない原因ではないかと思われます。
もう一つは人材の部分です。もともと計算科学の専門人材は国内で少ない状況でした。また現在さまざまな施策が検討され始めているところですが、急激に進化したAIやデジタル領域における専門人材が不足していることも要因として考えられています。
そうした中、国内における創薬開発力の深刻さがクローズアップされたのが、パンデミックにおけるコロナワクチンでした。新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、日本は海外産のワクチンに頼らざるを得なかったですよね。このような側面において創薬力は国の安全保障に直結するため、創薬開発力を底上げする緊急的な必要性が政府に認識されるきっかけになりました。
また、日本ではドラックラグ※1やドラッグロス※2といった医薬品格差が深刻化しており、政府が制度改革に取り組み始めています。海外で使われている薬の約140が日本ではまだ流通しておらず、そのうちの半分以上は開発にも着手されていない状況です*4。こうした創薬開発の格差が問題視される中、創薬開発力を高めていくためのアプローチとして、AIの創薬への活用に注目が高まっていると考えています。
※1 ドラッグラグ:海外で承認されている薬が日本で承認されて使えるようになるまでの時間差(遅れ)。
※2 ドラッグロス:海外承認された薬が日本では使えず、日本で開発される見込みもない状況
イノベーションハブとして提供する3つの価値
三井物産(ICT事業部)はどのような経緯でAI創薬支援サービス事業に取り組み始めたのでしょうか?
きっかけは、三井物産のアセットに強みがあったことです。三井物産の100%子会社である三井情報のバイオヘルスケア部隊は、製薬企業や大学病院の研究関連のソフトウェア開発等を50年近く支援してきました。同社が蓄積してきた知見をベースに新規事業を立ち上げられないかと考え、AI創薬支援サービスを提供するゼウレカという企業を2021年11月に設立しました。
そして、ゼウレカのパートナーの輪を広げるべく業界のさまざまな方と意見交換を行う中で、NVIDIAと面談する機会に恵まれました。情報交換していくうちに、日本の製薬業界におけるスパコンやAIへの投資の少なさについて課題意識が一致したのです。NVIDIAはかねてから高性能スパコンを創薬の現場で利用すべきとプラットフォームアプローチで製薬企業と積極的に話をされていました。同社のハードウェアとゼウレカのソリューションを組み合わせ、二人三脚で製薬業界にアプローチできないかと話が進んでいきました。
そうして立ち上がったのが「Tokyo-1」プロジェクトなのですね。
はい、その通りです。NVIDIAは、英国で計算インフラとしてスパコンの利用環境を提供する「Cambridge-1」という大規模なプラットフォームプロジェクトを2021年から始めており、この「Cambridge-1」を東京で、というアイデイアが、Tokyo-1の起点となりました。
検討開始当時、日本ではAI活用に積極的な製薬企業はなかなかいらっしゃいませんでした。新分野に挑戦するには、スパコンの導入などのインフラ整備、さらに対応可能な専門人材のリクルートとさまざまな投資が不可欠な上、コストの回収にかなりの時間を要するという高いハードルがあるからです。しかし、NVIDIAと一緒に製薬企業を訪問すると、どの企業も自社におけるAI活用の「遅れ」を認識されていました。そこで、製薬企業がツールや知見を共有できる枠組みを私たちがつくることで、製薬業界の膠着した現状に一石を投じることができるのではないかという想いが確信となり「Tokyo-1」プロジェクトが立ち上がったのです。
サービスの仕様を考えるにあたり、プロジェクトの理念に共感、賛同いただいた製薬企業6社とともに求める要件に関する議論を重ね、詰めていきました。スパコンの性能や運用保守体制、どのようなAI技術が必要か、そしてコミュニティのあり方まで、製薬企業の使用感やニーズに沿うよう半年以上にわたって協議を続けました。このように創り上げてきた「Tokyo-1」は、製薬企業が希望するスペックが盛り込まれていると自負しています。
「Tokyo-1」プロジェクトのコンセプトと概要について教えてください。
私たちが目指すのは、特定の製薬企業1社の成長支援ではなく、日本の製薬業界、そしてヘルスケア産業全体をデジタルで変革していくことです。「Tokyo-1」はそのためのイノベーションハブとして、計算科学を推進するのためのインフラ環境、DXソリューション、情報コミュニティの3つの機能を提供しています。
まず、計算環境として提供するのがNVIDIA製のAI専用ハードウェア最新モデル「NVIDIA DGX H100(GPU;大規模演算装置)」です。半導体のニーズが爆発的に高まる中、ChatGPTが台頭し生成AIブームが始まる以前から話を進めていたおかげで、最新の半導体を十分に確保することができました。
次に創薬DXソリューションです。創薬研究では、候補物質に関するさまざまなパラメータに関して計算をすればするほど開発の成功確率は高まります。しかし、1つの技術で全てのパラメータを解析できるわけではありません。
ゼウレカが得意とする標的タンパク質の立体構造予測、何十億もの仮想化合物ライブラリーを用いたバーチャルスクリーニング、標的タンパク質と候補物質の結合シミュレーションなどはゼウレカが支援しますが、それ以外にもさまざまなシミュレーション技術が世の中には存在します。先進的な解析・シミュレーション技術をもつAI創薬ベンチャーは米国を中心に英国、ドイツ、そして近年は中国にも主要な企業が出てきています。
それら最先端のAI創薬ベンチャーの技術を見極めた上で、「Tokyo-1」で活用できるよう環境整備を進め、AIによる大規模学習や画像解析、生成AIによる新規物質の合成など、今後サービスをさらに拡充させていきたいと考えています。
3つ目の機能が、製薬企業同士をつなぐコミュニティです。製薬業界において、創薬開発に関わる情報は競争力の源泉であることから秘密厳守が鉄則です。従って、意見交換や知見を共有する連携の場は、当然ながらこれまでほとんどありませんでした。しかし、いわゆる非競争領域といえる基盤技術の実力向上において、多くの製薬企業が連携しうると考えていることがわかったのです。もちろん前例などありませんから、どのように連携したいのか、どこまで情報が出せるのかといったコミュニティの骨格づくりは、プロジェクトにおいて最も難しい部分でした。
開発対象となるモダリティ※ごとに製薬企業が集まって情報交換をしたり、これまで各社ごとに検証していた創薬開発の基礎に関わる新技術などを効率的に共同検証することができます。各企業による差別化ポイントは共同検証で得られた結果のその先にあるため、純粋に研究の効率化と高精度化を実現できます。また、NVIDIA主催のAI・GPUエキスパートによるセミナーやワークショップを開催し、スパコンやソリューションの「使い手」としてのスキルも高めていくことで、製薬業界全体の底上げにつながっていくと考えています。
※モダリティ:医薬品業界において用いられている医薬品の創薬基盤技術の方法や手段の分類を表す言葉で、低分子医薬、中分子医薬、ペプチド医薬、核酸医薬といった分類を指す。
創薬領域の改革を目指して、認識から変えていく
「Tokyo-1」コミュニティの参加要件と、現時点での手応えを教えてください。
コミュニティは年会費制のメンバーシップスタイルをとっており、プランに応じて使用できるスパコンの台数が異なります。コミュニティでの情報交換・知見共有は、プランに関係なく参加いただくことができます。
2024年2月のサービスローンチからまだ間もないですが、参画企業であるアステラス製薬様や小野薬品工業様、第一三共様からは好評をいただいています。特にコミュニティに関しては、他社同士とは思えない距離感でフランクに意見交換ができており、期待通りの質と頻度で実施できていることにも手応えを感じています。
現在、多くの企業に参画をご検討いただいている中で、社内許可を得る難しさがネックのように見受けられます。新たな投資に対する経営的判断は慎重になって当然だと思います。AI技術を扱える人材の少なさや、AI創薬を活用して開発した医薬品がまだ上市に至っていない状況を考えると投資する決断に踏み切れないのは当然のことだと思います。
この状況を打開するためにも「Tokyo-1」で成功事例を数多く生み出し、AI創薬に対する認識を変えていきたいと思っています。成功事例がでてくれば、次世代の創薬開発に不可欠な技術として、導入を決断しやすくなると考えています。
AIを活用した新薬が上市するまでには、まだ少なくとも3~5年を要すると思われるため、現在進行形のAI創薬の革新をも積極的に発表していく予定です。それが業界全体の意識の底上げ、そして日々尽力されている創薬開発に関わる人々への鼓舞につながればと願っています。また、手軽にスパコンを利用いただけるエントリープランを追加するなど、利用が広がりやすいようなサービス設計も検討予定となっています。
「Tokyo-1」が社会にもたらす価値を踏まえ、改めてICT事業本部が見据えるヘルスケア産業の展望について、ぜひ教えてください。
ICT事業本部では医療とDXの2軸で事業を展開していますが、一貫している信念は「患者視点で考える」ということです。まだ薬が開発されていない病気が数多く存在する中で、1日でも早く、低コストで患者さんの元に薬を届ける、そのためにAIやデジタル技術が果たす役割は非常に大きいと考えています。
AI活用は、創薬分野からスタートしていますが、広く医療業界におけるAI活用も視野に入れています。また、コミュニティ参加企業の業種を増やすことは重要と考えており、製薬企業向けに製品やサービスを開発する医療機器メーカーに加えて、バイオベンチャーやDXソリューションを作るAI会社に「Tokyo-1」に参画いただくという構想もあります。
「Tokyo-1」のコミュニティの中で、未来のユーザーになり得る製薬企業から直接フィードバックを得ながら、ソリューションの改善を検討できるコミュニティに発展すれば、ヘルスケア業界全体の効率化が進む可能性があるのではないかと考えています。
こうした取り組みは、国が主導すれば良いのではないか、という意見もあるかもしれません。
しかし、顧客の声に耳を傾け、最良のパートナーとしてともに汗をかきながらより良いサービスを創り上げていくことこそが当社の強みであると自負しています。ヘルスケア産業をデジタルで変革するイノベーションハブの形成を目指して、この「Tokyo-1」プロジェクトに取り組んでいきます。
*1 Air Street Capital, State of AI Report October 11, 2022 p.63 (参照 2024-05-21)
*2 製薬協Webサイト くすりの情報Q&A(参照 2024-05-21)
*3 Biotechnology and Bioprocess Engineering 25: 895-930 (2020) (参照 2024-05-21)
*4 2023年度 医薬品評価委員会総会シンポジウム 「ドラッグ・ラグ/ドラッグ・ロスの現状」 (参照 2024-05-21)